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原節子の現在は?結婚せず独身を貫いた謎だらけの生涯を徹底解剖!
原節子追悼企画。銀幕の大スター原節子。現在もその魅力はスクリーンに永遠に生き続けています。原節子が亡くなった現在、生い立ちや家庭環境、永遠の処女と言われたその男性関係など様々なエピソードが語られるように。戦争と激動の時代を生きた原節子の生涯を徹底解剖してみた。

目次
原節子没後の現在、さまざまなエピソードが
2015年、引退後はほとんど公に姿を見せることもなく、ひっそりと鎌倉で生活していたと伝えられていた原節子が、亡くなっていたことが発表されました。往年の映画ファンにとっては銀幕のスターがまたひとり亡くなったという悲しいニュースになりました。現在、原節子の没後しばらく経過したためか、生前の原節子のさまざまなエピソードが週刊誌などで話題になっているようす。
現在も伝えられる原節子の伝説生涯独身を通し結婚歴はなし
原節子の伝説は、スクリーンの中で生き続けるその美貌とともに現在も長く語り継がれているものです。いきなり公の場所から姿を消してそれ以降人前に顔を出さなかったこともミステリアスな魅力を増大することに。
また、さまざまな男優や監督との恋愛エピソードがあったようですが、結局誰とも結婚をせず、独身のまま生涯を終えたということも現在もたびたび指摘されますよね。永遠の処女などと言われ、伝説の銀幕の大スターとして神格化される理由の一つになっているようです。
現在、原節子の思い出を語りだす人も
没後の現在になって、原節子の生涯結婚をせず独身を通した女優の人生の謎に迫る、恋愛遍歴などの証言も出てきているようです。映画プロデューサーの藤本真澄、映画監督の清島長利、古澤憲吾、俳優の伊豆肇など、恋愛関係がうわさされた男性は少なくなったというエピソードも語られています。
藤本真澄も生涯結婚せず独身。原節子との関係は義理の兄熊谷久虎につぶされたと公言していました。藤本はのちに銀座ホステスと付き合い、母親によって関係を清算させられますが、同じホステスが晩年の小津安二郎の愛人になったというのも有名な話。複雑な銀幕スターの男女関係は、理解しようにも想像を超えている?!
永遠の処女と言われる原節子。プラトニックな関係だったと噂される小津安二郎との関係や、ドイツ行きの少し前から付き合いがスタートした元陸上選手との初恋と失恋は、話題に上ることも多いようです。
現在でも色あせない魅力的な原節子のプロフィール
原節子 (はら せつこ) 本名:会田昌江(あいだ まさえ) 1920年6月17日‐2015年9月5日(満95歳没) 神奈川県横浜市保土ケ谷区出身 職業:女優 活動期間:1935年‐1963年 永遠の処女の異名をとる 生涯結婚はせず独身だった 引退後は鎌倉の義理の兄熊谷久虎の家で生活。 母屋は熊谷家が住み、原節子は離れに生活していたという。
原節子の生い立ち「永遠の処女」の複雑な家庭環境
原節子は横浜市出身。二男五女の末っ子でした。女学校へ進学したころには教師になりたかったという夢があったそうです。父は日本橋の衣料品の問屋を経営していたそうですが、1929年の世界恐慌をきっかけに生糸の価格が暴落。母は美人で知られた人で「小町」の異名があるほどの美貌だったそうですが、関東大震災で煮え湯を頭からかぶる事故にあっています。
原節子が物心つくころには実家の経済は傾き、母の精神状態は悪化。母は座敷牢に入っていたといいます。末っ子だった原節子が学業に集中できる経済力はなく、姉の夫、熊谷久虎の家に出されます。1934年のことです。翌年には熊谷久虎の強引な勧めもあって女優としてデビューします。
実家の家計が傾いたことが原因で私立横浜高等女学校を中退し女優の道へ進んだ原節子。当時の女優は家計を助けるために仕事を始めたというエピソードが少なくなかったもの。原節子は終戦時には20人ほどの親族の面倒を見たのだとか。
映画の中でも、家族の事情で苦しい選択を強いられる日本の奥ゆかしい女性像を演じることがたびたびあった原節子ですが、実生活でも家族の面倒を見る献身的な女性像が伝えられています。家族に尽くして孤独に亡くなる女優もいた時代。原節子は親族に看取られながら95歳で亡くなったことが現在伝えられています。
原節子の兄弟と映画界
原節子の兄弟は戦中・戦後の日本の映画の黄金期に映画界に深いかかわりがあった人物が勢ぞろいしています。次女の光代は女優。のちに映画監督の熊谷久虎と結婚します。三女喜代子は銀行員と結婚。息子は映画監督の木下亮です。四女の律子も映画監督の番匠義彰と結婚、離婚しています。原節子は五女にあたります。
原節子の兄弟は激動の時代を生きたこともあり、若くして亡くなった兄弟も多いのですが、三番目の姉は原節子没後5日後に106歳で亡くなっています。週刊新潮によれば2017年1月現在、四番目の姉は98歳で存命と伝えられています。
現在伝えられる原節子に女優の道を進めた義兄とのエピソード
家庭の経済状況が思わしくない中、15歳で女学校を中退して女優になった原節子。原節子を女優の道にと勧めたのは、姉光代の夫で映画監督の熊谷久虎でした。以降原節子と熊谷久虎の関係は、単なる義兄と妹というには近すぎる関係が続いていくことになります。
「ためらふ勿れ若人よ」での原節子の画像
デビュー直後の原節子です。1枚目からデビュー作「ためらふ勿れ若人よ」(監督:田口哲、昭和10年8月)。2枚目は「緑の地平線」(監督:阿部豊、昭和10年10月)。3枚目は「生命の冠」(監督:内田吐夢、昭和11年)。最後は日独合作「新しき土」の宣伝でベルリンを訪問した時のものです。 pic.twitter.com/44xqbgjWLj
— しいたけ (@zidaiokure_21th) June 4, 2017
1935年雑誌『令女界』の連載小説を映画化した「ためらふ勿れ若人よ」でデビュー。芸名は役名の節子をそのまま使用し原節子としました。映画の撮影時原節子は若干15歳でした。
大きかった義理兄、熊谷久虎の影響
熊谷久虎監督は青春映画「恋愛競技場」でデビュー。戦争がはじまると国策映画を世に送り出します。一時は映画を離れ国粋主義の思想に走り「すめら塾」結成。メンバーには原節子の名前もありました。戦争中は原節子と一緒に九州へ疎開。二人で間借り生活をしていたことすらあると伝えられます。初の日独合作映画「新しき土」のプロモーションで原節子がドイツへ出向き、ヒトラーやゲッペルスと面会する席にも同席しています。
原節子ともっとも深い関係にあった存在として私は義兄の熊谷久虎に注目した。熊谷は節子の姉の夫であり、つねに節子に寄り添い続けた。節子の外遊にも同行している。また戦争中、ふたりきりで暮らした時期があったことも今回の取材でわかった。だが、だからといって、彼を「恋人」と断定してよいのか。私は正直なところ、今もまだ掴みかね揺れている。この点ではW編集者とも意見が分かれた。できれば、読者の方、それぞれに考えて頂けたらと思う。
ベルリンでの原節子と熊谷久虎の画像
川喜多長政、原節子、熊谷久虎、川喜多かしこのベルリンでの画像。キュウコと呼ばれていた熊谷久虎。革命家としてカリスマ的な存在で、教祖と例えられたことも。原節子に結婚を考えるほどの相手が現れるたびに、キュウコがつぶすと恐れられたというエピソードもありました。結局原節子は生涯を独身で過ごし、最後は熊谷久虎夫妻の家の裏の離れに生活をして、熊谷久虎がもうけた息子夫婦、原節子にとっては甥夫婦にあたる家族と一緒に晩年を過ごしています。
原節子と熊谷久虎氏は二人だけで生活した時期もあり、久虎氏が亡くなるまで、その傍らから離れることはなかった。(中略)男女関係があったかは噂の域を出ませんが、強固な精神的な結びつきがあったのは間違いありません
日独合作映画で現在も海外で知られる原節子
原節子が文字通り海外進出を成し遂げた映画が「新しき土」です。初の日独合作映画で海外へ進出し、世界一周の旅をした原節子。ハワイから帰国する船上で盧溝橋事件のニュースを聞いたのだとか。日中戦争勃発寸前の海外旅行だったということになります。戦後は世界のOZUこと小津安二郎作品で人気を集め、現在でも海外にファンが多い女優として知られる存在です。
現在だから語れる?原節子の初恋の相手
結婚寸前まで付き合った相手との別れ
ベルリン五輪の陸上短距離選手だった矢澤正雄(やざわ まさお)にベルリン行きについて相談に乗ってもらっていたという原節子。文通したり銀座に出かけたりといったデートを続けていました。
矢澤選手はその後戦場へ赴き、もう生きて帰ってこれないと涙ながらの別れをしたそうですが無事に復員。結婚寸前だったのですが、結局矢澤選手のお父さんの大反対にあって断念。この失恋は、原節子が一生独身で結婚しなかった理由のひとつと言われることもあるくらい、ショッキングなできごとだったようです。
「本当に生きていてくれてよかった」という原の歓待に、「なにをおいても彼女と一緒になろう」と決心したという。だが、厳格な父に「ああいう華やかな仕事をしてる人は、お前のためにならない」と大反対され、7年に及んだ恋愛は潰えたという。
戦後は小津安二郎監督作品で原節子の魅力が開花
小津安二郎と原節子の間には、何らかの恋愛感情があったというのは定説。原節子が引退した翌年に小津安二郎が他界すると、葬儀にかけつけ号泣したというのは有名な話です。原節子は小津安二郎の葬儀に参列すると、それ以降は公の場に姿を現すこともなく、映画人との交流そのものを絶ってしまったといわれています。
小津安二郎監督作品では、『晩春』『麦秋』『東京物語』の3部作で原節子の美しさを現在でも堪能できます。現在、ニューデジタルリマスター版なども販売されているので、より一層名作のすばらしさを実感できるという声も。小津安二郎といえば床に座った日本の生活様式の美しさをローアングルで撮影した映像が特徴。座ったり立ったりといった所作が美しいのも原節子の魅力です。こぼれるような原節子の笑顔の画像に、現在でも古き良き日本女性の美しさをしみじみ感じる人も多そうです。
現在まで伝えられる原節子と小津安二郎の関係
生涯独身で結婚しなかった「永遠の処女」原節子。生涯独身で結婚しなかったのは小津安二郎監督も同じでした。没後出版された小津安二郎の日記には、たびたび原節子との交流もあらわされています。お酒に酔って原節子に電話を掛けるというくだり、二人の関係性がよく表れているほっこりするエピソードです。
62年5月。小津監督は日記にこう記している。 <原に酔余(酔って)電話する> ほろ酔いで人恋しくなったとき、声を聴きたくなる相手が、原さんだった。
小津安二郎監督は母を大切にした人物。北鎌倉で同居の母を看取ると母を追いかけるように翌年亡くなっています。原節子もまた鎌倉に家を構え、小津安二郎監督の墓参りを欠かしたことがないと伝えられていました。
女優・原節子としてのチャレンジ
黒澤明監督の「わが青春に悔なし」に出演した原節子。上品な中流家庭のお嬢さんを演じてきたイメージを一新。農家の嫁を演じて新境地を開いています。黒澤明監督にはかなりしごかれたという原節子。女優として幅を広げています。
いわゆる美人女優で派手な演技をするタイプではなかった原節子。原節子の所作の美しさや立ち居振る舞いがお気に入りだった小津安二郎監督は、原節子の演技のうまさを見抜いていた監督ということに。一方、原節子に派手な演技を求める人の中には、原節子を「大根」と一蹴する人もいたそうです。小津安二郎は原節子の演技のうまさをかっていて、常に称賛していたといいます。
「猿がドングリを拾うような誰にだって出来る下手糞な演技の真似事をしなかったところに原節子の偉大さがある」
原節子が引退を決意するまで
原節子が引退に踏み切った理由には諸説あります。一つには健康問題があります。白内障で目が悪くなったため、演技が難しくなったということや、足腰が痛くて畳に座る演技が難しくなったとするものです。引退間近には体調不良を訴えていたことも伝えられています。
「(95年の)小津の33回忌に、原節子さんのご自宅にもお品物を届けたら、ご本人からお礼の電話をいただいて、そのとき“最後に出た『忠臣蔵』の撮影のあとで足を痛めてしまい、立ち芝居ができなくなったので引退することにしたの”とおっしゃったのです」
現在、ライトが目に悪影響だったのではという説も出てきた
原節子は特にアップの画像が美しく、当時はライティングの技術もそこまで発達していなかったため、強い光の下で演技をすることも。晩年の原節子の目の衰えは、こうした強いライトによる影響もあるのではないかと現在では言われているようです。
1963年12月12日小津安二郎監督が亡くなります。すでに引退の意志が固かったのか、原節子は本名の会田昌江として弔問しています。小津安二郎宅へ出向き、玄関のたたきで号泣したというエピソードが有名に。この後、本格的に公の場から姿を消します。
小津安二郎を亡くしたことでモチベーションがなくなったとも
立て続けに家族や近しい友人を亡くし、女優を継続するモチベーションがなくなったのが引退の原因?!映画ファンは、小津安二郎と原節子の間には深い愛情があり、小津安二郎が亡くなったことで原節子が引退を決意したのだというのが定説になっています。
原節子は引退後も小津安二郎の法事などへは顔を出し墓参りは欠かさず、小津作品で親交があった人々の葬儀などにもきちんと足を運んでいました。
原節子の訃報は2か月以上経過してから伝わった
原節子は2015年9月5日に亡くなったことが2か月以上後になって公表されました。享年95歳でした。死因は肺炎。8月中旬には神奈川県内の病院へ入院していたと伝えられました。甥をはじめ5人ほどの近しい人が看取ったということです。遺言は残していないといわれています。会田家が喪中はがきを出したということがきっかけで亡くなったことがメディアに伝わったのだとか。葬儀は密葬。祭壇に遺影を飾ることすらなかったという徹底した状態だったそうです。
原節子の生涯を徹底解剖してみた
永遠の処女こと原節子の生涯。激動の時代を生き抜いた大女優は、晩年も好奇心と美意識を持ち続けていたことがわかりました。銀幕の大スターはスクリーンの中では色あせることなく永遠の命が与えられているもの。原節子の主演映画を見ながら、大女優の波乱万丈の人生を考えてみたい人もいらっしゃるかもしれません。これからも機会があったら日本映画の名作についてまとめてみたいと思います。
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