【世界の三船】三船敏郎の若い頃のイケメン画像まとめ【七人の侍/ハリウッド】

三船美佳さんの父親、三船敏郎。太平洋戦争を生き抜いた後に日本を代表する俳優になった文字通り伝説の男。スティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカスといった海外の映画人から賞賛されたために「世界のミフネ」とも呼ばれました。そんな三船敏郎を画像と共にご紹介します。

【世界の三船】三船敏郎の若い頃のイケメン画像まとめ【七人の侍/ハリウッド】

目次

  1. 三船敏郎 ~世界に知られた昭和のスーパースター~
  2. 三船敏郎の”野蛮な”存在感、衆を驚かす
  3. 映画界の巨匠・黒澤明監督と三船敏郎の関係
  4. 「世界のミフネ」――三船敏郎の影響力
  5. 海外からのオファーを蹴り、邦画を優先した三船敏郎
  6. 本妻と妾、スターの光と影
  7. 三船敏郎の最晩年、世話を引き受けた本妻の愛情

三船敏郎 ~世界に知られた昭和のスーパースター~

終戦後間もない日本の映画界を、故・黒澤明監督と共に牽引してきたと言われる昭和のスーパースター。かつて「世界のミフネ」とも呼ばれました。1997年に亡くなられましたが、2016年にハリウッド殿堂入りが発表され、再び評価が高まっています。

高橋ジョージさんとの離婚訴訟で話題になった三船美佳さんの父親でもあります。若い世代にはピンと来ない方も多いのではないでしょうか。彼が生きた時代と築き上げた華やかな経歴を画像とともにご紹介致しましょう。

三船敏郎の”野蛮な”存在感、衆を驚かす

反骨の漢

面白くもないのに笑えません――三船敏郎

撮影所の面接、今で言うところの俳優オーディションで、審査員に「笑ってみてください」といわれ、若き日の三船敏郎は「面白くもないのに笑えません」と言い放ったらしいです。

三船敏郎は、1920年(大正9年)日本占領下の中華民国・青島市に生まれ、貿易業、写真業を営む名家の息子として少年期を中国大陸で過ごしました。二十歳で徴兵され、のちに写真の知識と経験を買われて偵察員となります。上官に写真の腕を買われたことが命運の分かれ目となり、同僚たちが死地へ出陣する中、生き残ることができたといいます。1945年の終戦まで兵役に就いていた彼は、上官に対してずっと反抗的な態度でいたようです。

顔立ちを売りにすることを潔しとしない

俳優にはならない、男のくせに面で飯を食うのは好きではない――三船敏郎

後に偉大な俳優となる三船敏郎も、始めから俳優になろうと考えていたわけではないようです。それにしても、端正な顔立ちの方がこの台詞をおっしゃると、グウの音も出ません。格好よすぎです。

映画界の巨匠・黒澤明監督と三船敏郎の関係

巨匠が信頼する唯一無二の俳優

彼は表現がスピーディなんですよ。一を言うと十わかる。珍しいほど監督の意図に反応する。日本の俳優はおおむねスローだね。こいつを生かしていこうと思ったね、あの時は――黒澤明

信頼し合う二人の天才

三船敏郎と同時代に「天才」「鬼才」と呼ばれた映画監督、黒澤明。黒澤明は撮影現場において妥協を許さないことで有名でしたが、三船敏郎に対してだけは、自由に演じさせていたといいます。

黒澤明監督は三船敏郎の演技を全面的に信頼しており、それどころか映画の製作に三船敏郎のアイデアを多く取り入れました。三船敏郎が残した演技ノートと黒澤明が書いた映画の製作ノートから、黒澤明が三船敏郎の考えをどれほど重視していたかが伺えます。

三船無くして黒澤無し

一時期は黒澤明監督作品には必ずと言っていいほど三船敏郎が出演していました。「なぜそんなに三船敏郎を使うのか」というインタビューに対して、「三船君は特別の才能の持主で代わる人がいないんだ」と語ったといいます。「三船がいなくなったらどうなる?」という質問に対しては、「僕はもう映画を撮れなくなるかもしれない」と答えました。

会って、三船君、本当によくやったなあ、と褒めてあげたかった。あんな素晴らしい俳優はもういません――黒澤明

「世界のミフネ」――三船敏郎の影響力

『価値ある男』でメキシコ人を演じる

『価値ある男』は、1961年制作のメキシコ映画です。主人公の「アニマス」がメキシコ人であるにもかかわらず日本人が演じるという奇抜な作品ながら、多数の映画賞を受賞しました。

あらすじ

アニマスは野望ばかり大きくて、そのくせ家族を苦労させてばかり。地位や名誉にばかり囚われてほんとうに大事にすべき女房を大切にできない。最後には金も肩書きも手にしますが、家族は嘲笑され女房は娼婦を刺し殺す。そこでようやくアニマスは自らの間違いに気づく。

わざわざメキシコまで行った苦労が皆さんに認められたわけで、まあ、努力賞のようなものでしょう――三船敏郎

海外からのオファーを蹴り、邦画を優先した三船敏郎

『羅生門』(1950年公開)『七人の侍』(1954年公開)『用心棒』(1961年)『赤ひげ』(1965年)などの黒澤明監督作品で世界に知られるようになっていた三船敏郎のもとには、海外からの出演依頼が多数寄せられました。ところが、三船敏郎はほとんどを断り、日本映画への出演を優先しました。

『羅生門』

芥川龍之介の短編小説『藪の中』と『羅生門』を原作にし、黒澤明と橋本忍が脚色しました。
配給・大映製作
監督・黒澤明

『七人の侍』

黒澤明監督作品『七人の侍』で、主人公「菊千代」を演じる三船敏郎。菊千代は型破りな乱暴者でもあり、おどけた人物でもあり、最も敵を倒している最強の男でもある。『七人の侍』は1954年(昭和29年)公開の映画。アメリカで『荒野の七人』としてリメイクされるなど、数多くのリメイクが世界中で製作された名作。ジョージ・ルーカスやスティーブン・スピルバーグなど、世界で活躍する映画監督に多大な影響を与えた。

『赤ひげ』

海外の作品よりも日本の作品を優先させたことによって、三船敏郎の価値はさらに高まったといえます。(海外からのオファーの中にはジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』も含まれていました。)まさに、世界にとって『価値ある男』でした。才能に溢れ、努力を惜しまず、それでいて細やかな気遣い。芸能人としてあるべき姿を示すに相応しい振る舞いをされた方でした。少なくとも、世間の人にとっては。

本妻と妾、スターの光と影

これまで三船敏郎の輝かしいところばかり書きましたが、ここからはあまりよろしくない部分を紹介してまいりましょう。「本妻」と「妾(めかけ)」は現代では馴染みのない表現ですし、当時のマスコミの悪意を感じる言葉です。事態が泥沼化した経緯も含めてご紹介致します。

「妾」と呼ばれた女性の存在

三船敏郎は1950年(昭和25年)、女優の吉峰幸子さんと結婚します。二人の子供をもうけましたが、1970年に入って夫婦関係が悪化しました。吉峰幸子さんは三船敏郎の酒乱に困っていたということもあり、三船敏郎を家から追い出しましたが、本心では三船敏郎と別れる気がなかったようです。三船敏郎は離婚しようとしますが、吉峰幸子さんが拒否したことで裁判となりました。

三船敏郎は吉峰幸子さんとの裁判中に女優の喜多川美佳さんと交際を始めました。この喜多川美佳さんこそが、「妾」と呼ばれる女性です。なぜ妾と呼ばれるかというと、吉峰幸子さんとの離婚が成立していなかったため、正式に妻と認められることがなかったためです。三船敏郎は喜多川美佳さんを妻として扱っていましたが、正確には「内縁の妻」であることをマスコミに囃され、喜多川美佳さんは「妾」と呼ばれる至りました。

内縁の妻と子

三船敏郎は内縁の妻、喜多川美佳さんは本名「大野照代」さんとの間に一女を授かります。その子が後の女優・三船美佳さんです。喜多川美佳さんは、三船敏郎との間にできた娘を女優に育て、芸名として三船敏郎の姓と自らの芸名を組み合わせた名前をつけ、三船敏郎の財産のほとんどを喜多川美佳名義に変えました。

三船敏郎の最晩年、世話を引き受けた本妻の愛情

三船敏郎の最晩年はたびたび惨憺とした調子で語られます。
「おちぶれた」というのが当時のマスコミの評価でした。

老いしサムライ、病に倒れる

1992年(平成4年)三船敏郎は心筋梗塞で倒れました。病をきっかけに喜多川美佳さんは三船敏郎から離れていきました。そこで三船敏郎の世話を買ってでたのが「本妻」の吉峰幸子さんでした。三船敏郎は再び吉峰幸子さんのもとへ戻りました。二人はよく支え合い、その後の夫婦生活は円満であったようです。

1995年(平成7年)吉峰幸子さんが亡くなりました。吉峰幸子がどんな気持ちで吉峰幸子さんの死に向き合ったのか想像するしかありませんが、吉峰幸子さんこそ三船敏郎を真に愛した女性であったのだろうと思います。調子の良い時は、誰だって応援します。花の盛りは誰だって見に行きます。盛りを過ぎても応援してくれるのが本当のファンであり、本当に大切にすべき人です。

先に挙げたメキシコ映画『価値ある男』のラストと似ているような気がしています。「サムライ」と呼ばれた世界に知られた大俳優も、女性の本当の愛がどんなものであるか気づくために長い時間を必要としたのかもしれないと想像します。三船敏郎の生涯そのものが一篇の映画のようだと、後の世の人は思うのではないでしょうか。

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2020-10-27 時点

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