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元L⇔R黒沢健一が脳腫瘍をブログで告白!現在もまだ治療中だった!
黒沢健一さんといえば自身のバンドL⇔Rの代表曲「KNOCKIN’ON YOUR DOOR」はもちろん数々の楽曲を生み出したアーティストです。その黒沢健一さんが脳腫瘍を患っていることを公式ブログにて発表しました。現在の脳腫瘍の状況と経歴を振り返ってみましょう。

元L⇔R黒沢健一さん
名前:黒沢 健一
生年月日:1968年8月11日(48歳)
出身地:茨城県日立市
血液型:B型
黒沢健一さんの原点
黒沢健一さんは1990年頃、個人的に作っていたデモテープが知人であった音楽プロデューサー・岡井大二さんの耳に止まりL⇔Rとしてデビューへのきっかけを作りました。
黒沢健一さんは様々な歌手への楽曲提供やラジオ番組のテーマ曲の製作に携わってきました。彼の作成したデモテープに入っていた彼自身のボーカルが音楽関係者の間で評判となり、周囲から歌手としての活動を勧められるようになります。
黒沢健一さんとL⇔R
黒沢健一さんは1990年、弟の秀樹さん、友人であった木下裕晴さんの3人でL⇔Rを結成します。グループ活動を開始し、数々のヒット曲を世に送り出しました。
黒沢健一さんは6枚目のアルバム「Doubt」は音楽を追求する過程で各メンバーやバンドの方向性の違いの相違点が多々あり、L⇔Rの活動休止を発表し、ソロ活動にシフトチェンジします。
歌手でもありプロデューサーの黒沢健一さん
その後、黒沢健一さんはボーカリストとしての活動を一旦休止し、またデビュー以前の自分に遡るかのように、徳山秀典さんや、中島ちあきさんなど他の歌手のプロデュース等を中心とした活動を始めます。
作曲提供
1994年1月31日に森高千里さんが発表した21枚目のシングルの作曲を黒沢健一さんが担当しています。最高順位3位でした。夏のイメージがあったのですが1月に発売されたんですね。
作曲提供
1989年7月12日『GAUCHE』(ゴーシュ)は、南野陽子さんの7枚目のアルバムの中に中に入っています。こちらも作曲を担当していて、最高順位は1位でした。
作曲提供
1993年8月4日「My Home Town」 でも作曲を担当していました。ribbonからのソロ歌手としての初のシングル曲です。
黒沢健一さんのソロ活動
黒沢健一さんはポップバンドのボーカリストとしてのイメージから、ある意味ポップスの裏方(プロデューサー)としての存在を今までとは違った、リスナー層に浸透させた成果はかなり大きかった。
黒沢健一さんはソロアーティストとして、以前と違う面のプロダクトに違和感を持ったリスナーが少なからずいました。でもこれはすでに黒沢健一さんのイメージがポップ・シーンの中に浸透しつつあったからだと言われています。
「B」発売後、黒沢健一さんはソロとしては初の本格的なライブツアーを開始します。クラブクアトロなど全国で行われた、このライブのチケットは即日完売し、ライブパフォーマーとしての黒沢健一さんをファンも待ち望んでいた様子が分かるツアーでした。
その他、黒沢健一さんは新人バンドのプロデュース、他歌手への楽曲提供など、ミュージシャンとして、ソロシンガーとしての活動は多忙を極めていきます。
黒沢健一さん複数のグループ活動
「curve509」結成秘話
黒沢健一さんは事務所でたまたま再会した木下裕晴さんが自分の関わっているイベントに黒沢健一さんの出演を打診すると、そこから話は進み急遽バンドを結成する事となります。ところが出演予定のイベントが予想外に規模の大きなものだったため、黒沢が幾つかの曲を書き下ろし、最終的にはオリジナル曲を中心とした新バンドとしてイベントに出演することにしました。
「気楽さと趣味性の強い」部分にこだわり、自分達のルーツであるロックンロールを熱く、又楽しげに演奏するステージは評判を呼び、彼等の出演するライブハウスのチケットはほぼ毎回完売となり、結成から1年後に発売したミニアルバム「curve509」はタワーレコードのインディーズ・チャートで1位を記録します。
「健'z」というある意味コミカルなユニット名や、世間一般にはあまりなじみのない洋楽カヴァーをライブのレパートリーの中心とした趣味の部分が強い高いユニットのため、時には「お遊び」と受けとられた部分もあったが、このアルバムで聴かれるビーチ・ボーイズやポール・マッカートニーのオリジナルにおける複雑なアンサンブルをギター一本で楽曲の持つ本質的な部分を豊かに表現した萩原健太さんのギタリストとしてのセンスと、あくまでボーカルをサウンドの一部ということに重きを置いたこの絶妙なコンビネーションは、ありがちなアコースティックカヴァーとは一線を画すものとして評価されました。
進化「健'z with Friends」
その後、萩原健太さんがこのユニットに黒沢健一さん以外の声もサウンドに加わる事によって楽曲の表現の幅を広げる事を提案します。元ザ・グッバイの曽我泰久さん、そして個性的なシンガーソングライター高田みち子さんを加え、健'z with Friendsとして翌2004年アルバムをリリースをし、9月には東京キネマ倶楽部でのライブを成功させました。
MOTORWORKS(モーターワークス)にボーカリスト、ソングライターとしても参加する。元スパイラルライフ石田さんの呼びかけに応じて集まった、スピッツの田村明浩さん、ドラムのホリノブヨシさん、そしてボーカルに黒沢健一さんというある意味90年代の日本の音楽シーンを代表するメンバーでのバンドの結成は大きな話題となり、スポーツ新聞にも紹介されました。
ソロ活動へ再びシフトチェンジ
黒沢健一さんは2006年にはそういった奔放とも言える活動は一旦落ち着き、湯川潮音さんへの楽曲提供や曽我泰久さんのソロ作品などへの参加、浜崎貴司さんとのライブイベントでの共演や日本武道館で行われたジョン・レノン・スーパーライブでのギタリストとしての参加などの多彩な活動を行いながら、自身のソロ楽曲製作を行っていました。
体調不良により病院で検査し脳腫瘍見つかる
黒沢健一さんは2015年10月に東京と大阪のBillboard Liveで「黒沢健一 with KACTUS ~Special Cover Song Party 2015~」、公演のリハーサル中にめまいを感じ、病院で検査したところ脳腫瘍が見つかりました。
入退院を繰り返していた黒沢健一さん
黒沢健一さんは治療のため、入退院を繰り返しています。このタイミングで報告したことについて2016年10月3日の自身の公式ブログにて「脳腫瘍という病気が発覚してあっという間に1年がたってしまうこともあった」と話しています。
脳腫瘍だったと報告するつもりだったが・・
また、このタイミングになった理由として自身の公式ブログで当初はライブ会場で『こんな病気だった』と過去形でお話しできるよう病気の治療に専念していたと話していました。脳腫瘍が発覚してあっという間に1年が経ったこと、お知らせしないこともまた逆に無用な憶測を呼びかねない事を考え、今、皆様に報告することを決めましたとブログで説明しています。
今後は脳腫瘍も含め近況報告していく
最後に黒沢健一さんは今後は時間の許す限り、ちょこちょこと病気や治療のことや近況を報告していくとのことですが、筆無精なのであまり期待しないでとも説明されていました。
<まとめ>元L⇔R黒沢健一が脳腫瘍をブログで告白!
黒沢健一さんは2015年10月に体調不良を訴え病院で検査したところ脳腫瘍が見つかりました。治療のため、入退院を繰り返してきましたが1年がたった今も完治はしておらず治療を続けているようです。本来であれば過去形でお話したかったようですが、芸能人という職業柄無用な憶測を避けるために発表したようです。黒沢健一さんには治療をしっかりして1日も早く元気になった姿を見せてほしいですね。
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