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ビートたけしのフライデー襲撃事件とはなに?伝説の記者会見も紹介
お笑い芸人のトップとして君臨するビートたけし。いつも冗談ばかり行っているビートたけしですが、過去に起こしたフライデー襲撃事件を覚えていますか。ビートたけしが起こした伝説と言われたこのフライデー襲撃事件。そのフライデー襲撃事件を記者会見の映像を含めて紹介します。

目次
- ビートたけしの伝説の事件『フライデー襲撃事件』
- ビートたけしがフライデー襲撃事件を起こすまで①
- ビートたけしがフライデー襲撃事件を起こすまで②
- ビートたけしがフライデー襲撃事件を起こすまで③
- ビートたけしとたけし軍団
- ビートたけしが起こしたフライデー襲撃事件とはどのようなものか
- 女性の被害を知りビートたけしはフライデー襲撃事件を起こす
- ビートたけしがフライデー襲撃事件に率いたたけし軍団はやばい
- そのまんま東はフライデー襲撃事件に関して後に嘘を語る
- 伝説となったフライデー襲撃事件後の記者会見
- ビートたけしの判決後の記者会見
- ビートたけしのフライデー襲撃事件のその後
- フライデー襲撃事件後のビートたけしとたけし軍団
- ビートたけしがフライデー襲撃事件で残したもの
- ビートたけしの行動が芸能界に与えた影響は大きい
ビートたけしの伝説の事件『フライデー襲撃事件』
お笑いビッグ3の一人であるビートたけし。今日のバラエティ番組の基礎を作り上げたともいえ、様々な企画に挑戦して来ました。そんなビートたけしが、過去に起こしたフライデー襲撃事件を覚えている人も多いのではないでしょうか。改めて、あのフライデー襲撃事件、そして記者会見を振り返ります。
ビートたけしは1947年1月18日生まれの70歳。すっかりおじいちゃんになってしまったビートたけしですが、彼が伝説のお笑い芸人と言われるのは、決してその功績だけではないのです。本名が北野武であるビートたけしは、東京都足立区島根の家に生まれた、貧乏な子供でした。
ビートたけしがフライデー襲撃事件を起こすまで①
塗装職人である父親の、北野菊次郎と北野さきのもとに生まれたビートたけしは、生まれは浅草だったものの、すぐに足立区の家に移って生活していたようです。小さいころは、小柄ながら足が早くチーターをもじったと思われる『ターチ』というあだ名で呼ばれていたそうです。
祖母に可愛がられながら、母親からは厳しく躾を受け、父親は大の酒飲みだったようです。母親が教育熱心だったこともあり、成績優秀な子供時代だったそうです。そのため中学時代は進学校に在籍していたようです。また、小学校から高校までは野球部に所属、また高校のときにはジムでボクシングも習っていたとか。
ビートたけしがフライデー襲撃事件を起こすまで②
成績優秀だったビートたけしは、明治大学工学部(現在の理工学部)に現役合格。しかし、大学には馴染めず、家から逃げるように一人暮らしを初めて、新宿をぶらつくようになります。ビートたけしはCDも販売していることや、タップダンスの趣味があることからわかるように、音楽に興味があり、その縁はこの頃のジャズ喫茶通いが元になったようです。
ジャズ喫茶のボーイ、菓子の計り売り、実演販売員、ビルの解体工、クラブのボーイ、タクシー運転手などさまざまな仕事を転々としていきます。通訳になろうとしたこともあるらしく、このころのビートたけしは自分の夢を模索する時期だったようです。そういった中で、大学を事実上退学に近い除籍処分を受けて辞めています。
知り合いの縁で若松プロの作品に端役で出演する中で、芸能への興味も生まれたビートたけし。そんな中で俳優としてよりも演芸に興味を持つようになります。芸人になることは母親にとても反対されたらしいのですが、子供の頃からの勉強ばかり強いられた生活がかなりいやだったようで、猛反発したそうです。
ビートたけしがフライデー襲撃事件を起こすまで③
1972年ごろから浅草のストリップ劇場で芸人見習い兼、エレベーターボーイを務め、次第にコントに参加させてもらえるようになります。この劇場の経営者兼座長だった深見千三郎に師事し、プライベートな場でもギャグを飛ばし、ボケることの大切さを身につけることになります。
そういった姿は現在のビートたけしの自由のボケの姿を見ればわかりますよね。コントにこだわりのあったビートたけしですが、フランス座に出入りしていた2つ先輩の兼子二郎と漫才コンビを組むことになります。これが後の『ツービート』となり、それぞれビートたけし、ビートきよしと名乗るようになります。
しゃべくり漫才、アイビールックで新しい漫才の形を作り出し、またタブーネタにもどんどん突っ込む掟破りのやり方で、一躍有名になりました。古い芸風を大事にする芸人からの反発もありながら、B&Bらと共に漫才ブームを巻き起こし、1979年に女流漫才師『ミキ&ミチ』の内海ミキと結婚しました。
ビートたけしとたけし軍団
ビートたけしを語る上で無視できないのが『たけし軍団』です。1980年代ごろにビートたけしに弟子入りした『一軍』『二軍』、また1986年に弟子入りした『三軍』、そしてそれ以降の弟子入りを『若手』として構成された軍団です。また、『外人部隊』と言われるメンツも存在しており、歴代で100名を超える軍団員が存在します。
たけし軍団の中で、キャリア的にはそのまんま東が一番長いと言われています。しかし、軍団員としてはそのまんま東とガダルカナルタカが2TOPという形のようです。このあたりの2TOP問題に関しては、後のフライデー襲撃事件のときの行動が大きく関わっています。
一軍の軍団員は、そのまんま東(元メンバー扱い)、ガダルカナルタカ、松尾伴内、つまみ枝豆、ダンカン、ラッシャー板前、グレート義太夫、井手らっきょが在籍しています。3軍にあたるのは浅草キッドが有名ですね。多くの芸人が引退してしまっていますが、それでもたけし軍団にいたことは誇りに思っているようです。
また、たけし軍団は女性禁止のため、野沢直子などは断られています。2004年に解散宣言を行っていますが、事実上たけし軍団という名前が未だに使われることは多いですね。お笑い芸人の軍団ではありますが、所属しているお笑い芸人の素性は実は荒々しく、その要素がフライデー襲撃事件のときに全面に出ることになります。
ビートたけしが起こしたフライデー襲撃事件とはどのようなものか
お笑い芸人であったビートたけしが後に記者会見を開いて釈明することになる、フライデー襲撃事件。このフライデー襲撃事件とはどのような事件だったのでしょうか。このフライデー襲撃事件は、ビートたけしが人気絶頂の1986年に起こります。
フライデー襲撃事件は1986年12月9日に、お笑い芸人のビートたけしと、そのお笑い芸人の弟子で構成されるたけし軍団との12名によって起きました。この前日である12月8日に、渋谷の路上で、ビートたけしと交際していた(すでにビートたけしは既婚)専門学校生の21歳の女性を、フライデーの契約記者が突然取材したのです。
この記者は女性が通う専門学校の校門付近で、いきなりビートたけしとの交際について問いただしたのですが、女性はそれを避けて立ち去ろうとします。そのとき、事件が起きます。記者は前方に立ちふさがって、テープレコーダーを彼女の顔に突きつけて、手を掴んだり引っ張ったりして、頸部捻挫、腰部捻傷で全治2週間の怪我を負わせたのです。
女性の被害を知りビートたけしはフライデー襲撃事件を起こす
この事件を知ったお笑い芸人のビートたけしは、フライデーの発行元である講談社に電話をかけて、強く抗議します。怒りが収まらないビートたけしは、その翌日の午前3時過ぎに、ビートたけしとたけし軍団11人が、タクシー3台にそれぞれ乗り込み、講談社本館のフライデー編集部に押しかけたのです。
その際に、暴行傷害事件へと発展してしまったのです。お笑い芸人という立場もあり、ビートたけしはたけし軍団には手を出さないように指示したとされていますが、当時の編集次長らが挑発的な言動を繰り返したことが原因で、暴行へと発展してしまったそうです。
このフライデー襲撃事件では、ビートたけしは粉末消火器を噴射、たけし軍団の軍団員も、室内にあった傘や拳で殴打や蹴るなどして、編集長および編集部員らは、肋骨骨折などによって1ヶ月から1週間の怪我をおったのです。
ビートたけしとたけし軍団は、住居侵入、器物破損、暴行の容疑で現行犯逮捕されることになったのです。襲撃の様子は、カメラが無かったため残っておらず、釈放され車に乗り込むビートたけしの姿など、一部の様子しか残っていません。
ビートたけしがフライデー襲撃事件に率いたたけし軍団はやばい
このとき、ビートたけしが率いたたけし軍団のメンバーは、元は右翼、不良や学生運動を行っていたかなりやばい人たちで、中にはつまみ枝豆のように、木刀を持ってソ連領事館を襲撃した経験を持つものも居ました。そのため、ビートたけしはつまみ枝豆だけは、連れて行かなかったと言われています。
僕らのアイドル!たけし軍団!イイ写真!!左の写真のラッシャー板前さんの可愛さよ! pic.twitter.com/WepIvoOOIC
— 水道橋博士(小野正芳) (@s_hakase) 2017年3月13日
このフライデー襲撃事件に参加したたけし軍団のお笑い芸人は、ガダルカナルタカ、そのまんま東、松尾伴内、柳ユーレイ、大森うたえもん、サード長嶋、グレート義太夫、ダンカン、キドカラー大道、大阪百万円、19歳の少年だったそうです。
#こんなハリウッド攻殻は嫌だ
— 鷹盛洸(タカモー) (@Mg45Tallgeese) 2017年2月27日
9課のメンバーがたけし軍団 pic.twitter.com/8sDCyN7MET
このとき、さきほど説明した2TOPに関わる出来事は、このフライデー襲撃事件のときに、そのまんま東は、襲撃の現場には居たものの、あまり動かずビビって状況を見ていたと言われています。他の若手がビートたけしのために、命を張って暴れたのに対して、そのまんま東の行動は裏切りと思えるものでした。
そのまんま東はフライデー襲撃事件に関して後に嘘を語る
実はフライデー襲撃事件は、後に伝説となったあと、宮崎県知事となったそのまんま東は、この事件を振り返る際に、幾つかの嘘を残しています。
「嫌々後からエレベータに乗ったら出る時に先頭になった」
この発言はギャグのようにそのまんま東がネタにしていますが、同じく襲撃に参加したキドカラー大道が、先頭は「俺だった」と語っています。というのも、まだ未熟だったキドカラー大道は、常にビートたけしの先を歩き、扉を開ける役割を普段から担っていたのです。
フライデー襲撃事件のときも同じで、キドカラー大道は講談社の何階にフライデー編集部があるかなどを聞いて、常に先頭にいたようですね。キドカラー大道の記事を見ていくと、ビートたけしは、電話で最初に対応した増子という記者の顔面にパンチを入れたようですね。
伝説となったフライデー襲撃事件後の記者会見
そもそもこのフライデー襲撃事件には、当時フライデーから、ビートたけしの家族に対しても、執拗な取材があったという背景があります。交際していた専門学校生だけでなく、ビートたけしの妻と子供が私立学校の面接に行く際も写真を取られ、このことが原因で学校側から入学を断られたという経緯もありました。
そのため、ビートたけしとしてはあくまで専門学校生の件は、最後の最後で堪忍袋の緒が切れたわけで、それまでの積み重ねもあったということなんでしょうね。
「色気」とは一体何だろうとよく考えるんだけどフライデー襲撃事件後会見でのビートたけし とんでもなく色気があると思う pic.twitter.com/3v9eNTWcEU
— 幹 (@_3ki0) 2017年3月28日
当時お笑い芸人として人気絶頂だったビートたけしが起こしたフライデー襲撃事件。そのため、釈明のための記者会見が行われます。この記者会見でも、終始ビートたけしは、自分の行動を正当な行為であったという感じで話していますね。後にも先にも、こんなピリピリした記者会見はないと思います。
ビートたけしの判決後の記者会見
出版社に対して憤りを感じているのも変わっていませんでした。売る人が居て買う人がいるという中で、どんな内容であれそれを販売して、買う人が居るという難しさはあると思いますね。しかし、さすがのビートたけしも裁判後は披露が見て取れますね。
ビートたけしのフライデー襲撃事件のその後
実刑になっても、その刑に服する気もあったようで、どこまでが真意なのか難しい会見ですが、どのような結果になっても控訴する気はなかったようで、相当長期間に渡る裁判が嫌だったんでしょうね。今以上に週刊誌の過剰な報道行為はひどく、このフライデー襲撃事件が、そういった週刊誌のあり方に大きく変化を与えることになったと思います。
現在のおちゃらけたビートたけししか知らない若者からすれば、さきほどの動画はかなり衝撃的なものだと思いますね。ビートたけしのためなら人殺しもしかねないたけし軍団、そして終始イライラして会見に出席しているビートたけしの姿は、当時の芸能界というものがどういう世界なのかを垣間見ることができます。
フライデー襲撃事件後の判決後にも語っているように、仕事の復帰はすぐにはできず、石垣島に逃れて生活していたようです。盟友の島田洋七が会いに来てくれたことで、なんとか気持ちを繋いでいたようです。まるで逃亡犯のような生活だったとも言われています。
フライデー襲撃事件後のビートたけしとたけし軍団
その後のビートたけしは、フライデー襲撃事件で迷惑をかけたたけし軍団を一生食わせてやることを決意したと言われています。そのため、ビートたけしはどんな仕事でも顔を出すようになったといわれ、そのときにいわゆるバーターと言われる付き添いの形で、一人でも多くたけし軍団のメンバーを出演させてあげたようです。
フライデー襲撃事件前まで、まるでゴロツキを集めたような団員だったたけし軍団ですが、本当にまともに生活を出来ないような人間でも拾い上げていたビートたけし。その恩義を返すために、たけし軍団の忠誠心はすごかったようです。事件以降はそういったことはしないようにビートたけしに言われたのか、表立った事件は起きることはなくなりました。
ビートたけしがフライデー襲撃事件で残したもの
ビートたけしがフライデー襲撃事件、そして記者会見で伝えたかったことは何なのでしょうか。ここには、当時のマスコミの姿勢に対する批判が見て取れます。ビートたけしのようなお笑い芸人を始め、アイドルや俳優、女優たちはプライベートを、常に記者に追われる生活が続いていました。
今で言えばプライバシーの侵害は平然と行われており、このフライデー襲撃事件と記者会見によって、写真週刊誌の売上は激減します。ビートたけしの襲撃の理由はあくまで自分の大切な人と守るための行動でしが、マスコミの報道姿勢も大きく変わるきっかけになりました。記者会見のビートたけしの発言を聞いていると、それがよく伝わりますね。
ビートたけしの行動が芸能界に与えた影響は大きい
ビートたけしのこの事件や、記者会見の対応は現在でも賛否両論がありますが、ビートたけし、そしてたけし軍団が大切な人を守るためとして行った行動は、少なくとも芸能界という世界の大きな転換期のきっかけになったのは間違いないでしょうね。


