織田信長の家系図から本能寺の変!年表などで幼少期からの人物像に迫る!

織田信長の家系図・本能寺の変・年表などを、一気にまとめてみました!那古野城が生誕地、三英傑のひとりと数えられている織田信長とはいったいどのような人物だったのか?どんなことを成し遂げたのか?家系図・本能寺の変・年表を頼りに、織田信長を解析していきます!

目次

  1. 織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像
  2. 織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像
  3. 織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像
  4. 織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像
  5. 織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像
  6. 織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像
  7. 織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像
  8. 織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像
  9. 織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像
  10. 織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像
  11. 織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像
  12. 織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像
  13. 織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像
  14. 織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像
  15. 織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像
  16. 織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像
  17. 織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像
  18. 織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像
  19. 織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像
  20. 織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像
  21. まとめ:織田信長について

織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像

織田信長ってなにした人?

とにかくニュースでも教科書でも、織田信長を紹介する最初の惹句は「本能寺の変」。本能寺の変で自害した人だよ~なんて言われたまま、その他はどうしてかパッとしない織田信長……。自害は功績ではありませんよね。知名度は最高クラスなのに自害ばかりニュースに取り上げられる、そんな織田信長を幼少期から遡り、家系図を説明しながら、その人物像までじっくりご紹介していきます!

母である土田御前(どたごぜん・つちだごぜん)が、織田信長の父である織田信秀の正室だったため、織田信長は2歳にしてとある城の城主となりました。生誕地ともいわれている那古野城です!愛知県名古屋市に所在しており、織田信長の父・織田信秀は、今川氏豊(いまがわうじとよ)からこの城を奪ったのです。その2年後に織田信長は生まれました。

hydeliu0120さんの投稿
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16世紀後半に廃城となり、その後名古屋城と名前を変え、世間一般に認識されるようになりました。息子の織田信長に城を譲った織田信秀は新たに築いた古渡城(ふるわたりじょう)に住んだといいます。

plumeria7070さんの投稿
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織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像

側近の書いた【信長公記】

幕府ニュースがはいりました!織田信長観察日記が流出!なんて、当時は騒がれそうな「信長公記(しんちょうこうき)」とはなにか、ご存知でしょうか?織田信長の臣下のひとりだった、太田牛一(おおたぎゅういち)が書いた軍記なのですが、ちゃんとした書物であります。

shingo_mamaさんの投稿
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宣教師ルイス・フロイトから見た織田信長

maedayumi715さんの投稿
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宣教師とは、自分の考えや理想をより多くの人に伝え回る人のことをいいます。ポルトガルを離れたルイス・フロイスは戦国時代の日本へとやって来て、織田信長や豊臣秀吉と出会いました。貴重な資料として有名な「日本史」の著者であり、また他にも著作を残し、日本でキリスト教を広めたのです。

jae_jcat0720さんの投稿
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さて、色々な人物が織田信長を記したなかで、いったい織田信長はどんな人だったのか、その人柄や人物像・性格をご紹介していきます。

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織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像

織田信長が活躍した年代は1534年―1582年

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戦国時代から安土桃山時代を駆け抜けた名だたる名武将!しかし、その幼少期は奇行が目立ち、信長公記によると世間からは「尾張の大うつけ」と呼ばれていたそうです。常識を覆す・無視する言動や行動は、一般的に受け入れられがたいですが、大うつけの織田信長は、人を差別することなくみな平等に接し、民や若者に交じって遊ぶといった幼少を過ごしました。

町民たちと日が暮れるまで遊びまくり、汗を流せばその汗を拭いてあげたりしていたそうです。幼少期に城の主になってもすることなんかありません。大人相手では遊びもつまらなかったでしょうし、同年代を求めた織田信長は城下町へ繰り出していたのですね。町民からは愛されていた人物像と思えますね。

そんな幼少期に、ある人物と出会っていた!

kashiwa_goalさんの投稿
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そう徳川家康!これは大きなニュースです。織田信長同様に、三英傑のひとりとして有名です!この徳川家康さんなのですが、遊んでいた織田信長と比べて、なんと人質として幼少期を過ごされていたんですね。驚きです。そして3歳にして母と生き別れてしまいました。それにしても織田信長と徳川家康は対照的な幼少期を過ごされています。その幼少期に出会った彼らですが、大人になってからふたたび出会うのでした。

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織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像

簡潔な年表をまとめてみました

kuni__mamaさんの投稿
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年表①天文3年(1534)に織田信長誕生。年表②天文15年(1546)に古渡城にて元服。年表③天文17年(1548)に政略結婚。年表④天文20年(1551)父・織田信秀が死んだため家督を継ぐ。まずはこの4つからご説明していきますね。

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織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像

年表②古渡城で元服

yukikimisawaさんの投稿
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いきなりのガクトさんで失礼します。頭に被っているのは烏帽子(えぼし)といいまして、元服(げんぷく)のさいはこれを被るのです。つまり成人式のようなことをするのが元服です。男性と女性とでは服装も違いますし、女性の場合は地味な着物に眉を引いて歯を黒くする、と覚えていただければいいと思います。ちなみにお歯黒をして眉を引かない場合は半元服と呼ばれ、今現在でも舞妓や遊女があつまる一部の花街で残っています。

petitbavaroisさんの投稿
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年表③政略結婚

hiroimaruさんの投稿
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父・織田信秀と敵対していた戦国大名・斎藤道三の娘濃姫(のうひめ)と結婚しました。流れとしては敵対していた関係が和らいだ証として、結婚という選択肢をとったのです。美濃国(みののくに)における名家・富豪家・寺や神社などをまとめた1冊の本、美濃国諸旧記(みののくにしょきゅうき)という軍記では、濃姫は帰蝶(きちょう)と称されています。

katsuragitooruさんの投稿
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岐阜県で販売開始がされた濃姫というイチゴです。幼少期から歴史のある織田信長と違って、織田信長と結婚してからもとくに特記のない濃姫。いつ死んだかも不明であり、どういった人物像だったかも不明です。そういった女性サイドにフォーカスを当てた時代劇のドラマもありますので、テレビだとまたネットにも出ていない濃姫についての情報があるかもしれませんね。

key2ueさんの投稿
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年表④父の跡を継ぐ

nashizillさんの投稿
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織田信長は亡くなった父に代わり、織田家の当主となりましたが、ここでひとつ正室と側室についてお話します。織田信長と結婚した濃姫は正室だったといいます。昔の日本では一夫多妻制を敷いていまして、戦国大名である織田信長も子孫を残すために正室とは別の側室をもっていました。父の織田信秀もそうで、奥さん以外の女性に子供を産ませていたのですね。しかしながら、正室の産んだ子供が一番濃く血を受け継いでいます。

織田信長が生まれたとき、すでに長男は存在していました。兄弟は25人もおり、ならどうして織田信長が跡を継ぐことができたのか疑問に思われると思います。これはとても大きなニュースに見えて、中身は単純なのです。先ほども言いました通り、織田信長は正室の子供だった、しかし長男は側室の子供だった。これだけの違いで、どっちが先に生まれようが跡継ぎは織田信長になりました。ところが跡継ぎ争いは苛烈を極めたのでした。織田信長の弟は正室の子供だったのです。

織田信長・弟を暗殺する

chiaki_kikkawaさんの投稿
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織田信行(おだのぶゆき)が弟です。織田信長とまったく同じ父と母との間に生まれた子供で、いまでいう不良の織田信長と対照的な存在、優等生な人物像としてよく書かれています。跡継ぎ争いは長期戦に渡って繰り返されましたが、弘治(こうじ)3年(1557)の11月2日に織田信長の臣下によって暗殺されました。また、追い詰められた織田信行は兄・織田信長の前で自刃したともいわれています。

chiaki_kikkawaさんの投稿
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暗殺されるまで度々謀反を働いてきた織田信行さん。しかしこんなエピソードがあります。弟の秀孝が同族の家臣に誤って殺されてしまう事件が起きます。世が世なら重大なニュースになっているところ、織田信行は激高し、誤殺した者たちを城ともども焼き払ったのです。その敵討ちである行動が同族にとっては高評価となり、跡継ぎに期待を寄せられるといったこともありました。

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織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像

年表⑤永禄2年(1559)に13代将軍足利義輝に出会う。年表⑥永禄3年(1560)桶狭間の戦い。年表⑦永禄5年(1562)清州同盟誕生。次はこれら3つをご説明していきます!桶狭間の戦いは歴史上トップニュース扱いされていますね。とても有名な戦です。

ebinko.5さんの投稿
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年表⑤永禄2年に13代将軍足利義輝に、織田信長は出会いました。しかし足利義輝のいる城を織田信長が訪問しただけに過ぎず、その後はとくに接点はなかったようです。足利義輝といえば剣豪で大変有名なのですが、「鬼のごとき最後」を遂げたといいます。鎧を着た敵を名刀で4,50人斬りまくってから死んだのです。しかも、10本ほど用意された名刀を取り換えつつ抗戦したのです。とにかく剣術に優れていたという人物像ですね。

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織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像

年表⑥桶狭間の戦い!

永禄3年に、織田信長の名を世に知らしめる一代センセーションな出来事が起こりました。桶狭間の戦い!(おけはざまのたたかい)。今川家第11代当主である今川義元(いまがわよしもと)率いる2万5000千の大軍に対し、織田信長の兵は5000……絶望としかいえない数字ですね。しかしこの戦、織田信長の勝利として終わります。

織田信長の洞察力・機転・経験が勝利をもたらしたのでしょう。今川義元は今回の戦で初めて指揮を執りました。そして沓掛城(くつかけじょう)に本陣を置き、戦況を窺っていたのです。

ganmi24さんの投稿
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現在では史跡(歴史的建造物のひとつ)として指定されていて、公園として利用することができます。今川義元はこの大高城(おおだかじょう)に入るべくタイミングを窺っていたのです。大高城は、今川義元の配下であった徳川家康(当時は松平元康)が兵糧を送ったことで有名な城であり、何としてでもそこへ行かねばならなかったのです。

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そのためには、桶狭間という窪地を経由しなければ大高城には行けませんでした。沓掛城→桶狭間→大高城。そこを織田信長は狙ったのです。農民に化けた家臣を使って今川義元にご飯や酒を勧め、さらには天候が味方となり、豪雨に見舞われた今川義元はどちらにせよ桶狭間で足止めを食う羽目になっていたんですね。そうして雨と霧に紛れて進軍していた織田信長は、休息をとる今川義元に奇襲をかけたのでした。

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尾張に織田信長あり

joetsu.m.h.sさんの投稿
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今川義元を守る兵は5,6000人でした。これまらいける!と織田信長による怒涛の攻撃で、今川軍は士気を下げられ、奇襲の混乱も相まって劣勢へと追いやられていきます。今川義元の最後もすさまじかったといいます。織田信長の家臣・毛利良勝(もうりよしかつ)によって組み伏せられ、討ち取られましたが、最後の最後に毛利の左指を食いちぎった逸話があります。すごいですね。

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織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像

年表⑦清州同盟

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徳川家康さんです。なんだかもう画像から優しそうな人物像を思い浮かべてしまう……。さて、桶狭間の戦いから2年後、織田信長は徳川家康と清州同盟(きよすどうめい)なる約束事を交わしました。

anthologyofsosoregionさんの投稿
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しかし、実は桶狭間の戦いのあとに、清州同盟を組もうと両者は考えていたのですね。でも、今川家当主・今川義元が戦で戦死したので、徳川家康はそれを機に独立しました。今川軍が捨てて逃げた城を拠点として、活動を開始したのです。

kou.itooさんの投稿
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岡崎城です。この岡崎城は父方の祖先からずっとあるもので、いわゆる徳川家の家そのものだったのですね。しかし今川さんに奪われてしまったので、放棄された実家にまた戻ったまでのこと。そこで、徳川家康は今川さんと同族の吉良さんと戦うことに決めるのですが、頭の片隅で織田信長との同盟をどうしようかどうしようか、と考えていたのです。

shige9753さんの投稿
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織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像

そのころ織田信長は、美濃国の斎藤氏を攻略中であった

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斎藤氏とは誰か。覚えてますでしょうか、織田信長の奥さんは濃姫。その父親が斎藤道三です。政略結婚を果たしてからというもの、まさに二人三脚で頑張ってきた織田信長と斎藤道三。しかし、弘治2年(1556)に道三の嫡男(ちゃくなん)である斎藤義龍によって殺されてしまいました。嫡男とは正室の産んだ子供を指し、織田信長も嫡男でした。つまりもっとも近しい息子によって、斎藤道三は命を落としたのです。

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斎藤道三は斎藤義龍を「おいぼれ」と思うようになり、側室の子供たちを溺愛するようになったのですね。側室の子供たちが義龍より利口者だったことも一因になっています。「跡継ぎの座が奪われるっ」と察知した義龍はこの側室の子供たち斎藤孫四郎(まごしろう)と斎藤喜平次(きへいじ)らをおびき出して、家臣に殺させました。

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織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像

そして長良川の戦いにて斎藤道三敗れる

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また、長良川(ながらがわ)の戦いにて、道三と義龍が交戦しているとき、織田信長は道三を助けに進軍していました。が、無念にも間に合わなかったのです……。そして、道三は美濃国をあなたに譲る、と織田信長に遺言書を残していたといいます。実の息子である義龍は最後まで、父親に認めてはもらえなかったのです。どこか物悲しいですね。

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織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像

斎藤氏の攻略完了である!

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年表⑧永禄4年(1561)斎藤義龍死去。年表⑨永禄10年(1567)ついに尾張・美濃国を手中に収める。年表⑩天正3年(1575)織田信長と徳川家康連合軍による長篠の戦。次はこれらについてご説明していきます!

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織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像

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永禄4年に持病を患っていたとされる斎藤義龍は死去しました。その跡は実子である斎藤竜興(たつおき)が本拠地稲葉山城を継ぎましたが、すでに斎藤家の勢力は衰えていたためたちまち織田信長によって攻略されたのでした。

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年表⑨ふたつの大きな国を手に入れる!

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これは織田信長のなかでトップニュースのひとつですね。伊勢方面から岐阜県中南部の中農にまで支配下を広げていた織田信長は、美濃三人衆と呼ばれる斎藤氏側の家臣をも味方につけ、勢力を強めていました。そして稲葉山城の戦いにて稲葉山城を奪い取ることに成功し、この戦がきっかけで天下統一を目指すようになります。稲葉山城改め、岐阜城の誕生です。

shige9753さんの投稿
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また、稲葉山城の戦いで三英傑のひとり豊臣秀吉が出世したとの話もあります。天文23年(1554)ころから織田家に仕えていた豊臣秀吉は、その後、永禄11年(1568)の観音寺城の戦いにてとても活躍したと信長公記にも記述されています。

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年表⑩長篠の戦い!

deskpitさんの投稿
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織田信長の歴史上トップニュースのひとつです!

hajime1534さんの投稿
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戦国最強と謳われた武田軍を相手に、当時普及されつつあった火縄銃をふんだんに使用した織田信長・徳川家康連合軍による有名な戦です。現在でいう愛知県東半部にあった長篠城を巡って大乱闘を広げたのですが、織田信長・徳川家康はこれが武田軍との初接触ではありませんでした。

y.gantanさんの投稿
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↑いつもの頬に手を当てている徳川家康ではなく、この徳川家康は精悍な顔つきをしていますね。雄々しい姿です。さて長篠の戦いで織田・徳川軍と戦ったのは、かの有名な武田信玄の跡継ぎ・武田勝頼です。織田信長と武田氏はこれまでたびたび小競り合いをしてきた仲でして、なかでも織田歴史のニュースに取り上げられそうなのが、三方ヶ原の戦い。

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織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像

現在でいう静岡県浜松市にある三方原町近辺

yukosangawaさんの投稿
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こちらが武田信玄さん。元亀(げんき)3年(1573)の当時に敷かれていた、反織田信長連合の「信長包囲網」に参加するべく移動していた武田信玄軍を、織田・徳川軍が発見。これを迎え撃ちましたが、残念ながら敗退を期しました。この戦は徳川家康にとって大変な意味をもつこととなりましたが、同時に、恐怖のあまり脱糞してしまった逸話でも有名です。脱糞はバッドニュースですね……脱糞がバレた家康は家臣に「これは味噌である!」と言い放ったそうです。

rrrrrei0224さんの投稿
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こちらは浜松城。静岡県にありまして、武田軍から命からがら逃げおおせた家康が、この城で脱糞したらしいです。バッドニュースすぎる……でも、恐怖のどん底に陥っている人間とは何をするか分からないものですよね。漫画などであまりの恐怖に尿を漏らす描写はたくさんありますし、それが脱糞だっただけで。家臣も黙って、徳川家康の気持ちを汲んでやればよかったのに!と思いました。

Thumb織田信長の城!ゆかりの地(場所)は岐阜城・清洲城・安土城・勝幡城など。

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鉄砲が日本に伝来したのは種子島が最初

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話は戻りますが、いったい全体どうやって戦国最強と謳われていた武田軍を相手に織田・徳川連合が勝利したのか。織田信長は話によると、約3000丁もの鉄砲を兵に配布し、戦法「三段撃ち」で武田軍の騎馬に対抗したとか。

kintaikyoさんの投稿
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三段撃ち三段撃ち、と言っていますが、具体的に三段撃ちとはなにか。とてもシンプルでして、鉄砲隊を3つのグループに分けます。1隊目が発砲すると、控えている2隊目が入れ替わりでまた発砲、そして3隊目がまた発砲。他の隊が発砲している間に弾を込めて、次くる順番に備えているのです。これが戦法三段撃ちであります!戦国最強は武田なり~と各地でこのようなニュースが出回っていましたが、鉄砲を前にした武田騎馬隊は次々と倒されていったのでした。

myotoooさんの投稿
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しかしながらこの三段撃ちは現実的には不可能、織田信長はやっていない、という説が有力視されており、信長公記に鉄砲を用いていた記述はあれど三段撃ちについては記述されていません。鉄砲の数も3000丁と盛っただけで実際は1000丁ともありますし、真意のほどは定かではございません。でも、織田・徳川連合軍が武田軍に勝利したことは紛れもない事実です。

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織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像

そろそろあれのご登場だ~!

maebashi_tripさんの投稿
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と、その前に、引き続き年表から織田信長についてご説明していきます!とはいえテストに出てきそうな織田信長の偉業はそれほどないかと思われます。どうしても本能寺の変がトップニュース扱いされていますしね。この年表でも耳にしたことがありそうなことから、それにまつわる雑学といった流れでお話しています。ではいきましょう。年表⑪岐阜城を拠点にしていたが天文4年(1576)に安土城へ移る。年表⑫天正10年(1582)に武田氏滅亡。年表⑬天正10年(1582)に本能寺にて自害。

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織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像

年表⑪安土城

ks8_kazumasasatomiさんの投稿
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hiro_c_officialさんの投稿
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現在でいう滋賀県中部にあったとされる安土城。地下1階の6階建て、それまでに造られてきた城の概念を覆すような絢爛豪華な意匠が独創的であると評判でした。さぞや安土城のニュースは瞬く間に広まったことでしょうね。画像の安土城を見るかぎりでは、たしかに色合いからその高さまで、どことなく計算し尽くされた完璧さと、一線を画す佇まいが感じられます。そんな安土城ですが、なんと悲運に見舞われることに。

earth_nさんの投稿
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天守と本丸が燃えて焼失してしまったのです。これには諸説ありまして、おもに4つが理由として挙げられています。①明智秀満軍が敗走のさいに放火。②織田信雄が明智秀満軍の残党をあぶり出すために放火。③金目のものを盗むために盗賊や野盗がはいり放火。④落雷による焼失。なぜか天守と本丸だけが燃えた、というところが謎なのですが、それなりに安土城焼失(一部分)ニュースとして歴史のひとつに挙がっています。

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織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像

年表⑫宿敵・武田氏の衰退、滅亡

ruoxi_0303さんの投稿
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長篠の戦いで、重要ポジションにいた家臣をたくさん失ってしまった武田勝頼は動揺を隠せず、それ以降力が弱くなってしまいました。そして天目山の戦いにて、「片手千人斬り」との異名をもつ土屋昌恒(つちやまさつね)ら強力な武将とともに織田・徳川・北条の大軍を相手に奮闘しますが、大将である勝頼とその息子信勝は自害しました。

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織田信長とは:家系図・本能寺の変・年表・幼少期・人物像

そして年表⑬本能寺の変!

seikoseko12さんの投稿
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ioamashiwakaさんの投稿
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年表⑬天文10年(1582)に、家臣・明智光秀の謀反により織田信長は本能寺にて自害しました。

これが【本能寺の変】!

whispering_momentさんの投稿
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明智光秀が謀反を起こした確固たる理由はいまだ不明であり、日本史の謎としてあまりにも有名です。有力な説は怨恨説ですね。その昔人質になった母を織田信長に殺されていますし、なにか接待の場で恥をかかされたこともあります。「日本史」の著者ルイス・フロイスによると「ほとんどの者に対し、織田信長は貴様呼ばわりした」とあり、天下人間近だった彼は完全にのぼせていたのでしょうね。

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まとめ:織田信長について

shingo4936さんの投稿
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以上で織田信長についてのまとめは終わります。いかがでしたか。幼少期のころから極めて変人だったと名高い織田信長でしたが、戦国の世を渡り歩いて、とうとう天下人の一歩手前まですすみました。けれども、志半ばで自ら命を絶ち、その後あとを追うように明智光秀も命を落としました。「鳴かぬなら、殺してしまえ、ホトトギス」と垣間見える残虐な一面もありますが、軍師との声もあった織田信長はこれからも現世で語られていくことでしょう。

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